昭和五七年一月十四日朝の御理解
x御理解第二十九節 「桜の花の信心より梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の 花は苦労して居るから永う散らぬ。」
教祖の御教えというか、教祖の信心というのは、どこまでも生き神を目当てに信心の稽古をさせて頂きます。その内容が「日に日に生きるが信心なり」と仰せられます様に、この「日に日に生きるが信心」と言う事は、日に日に自分を空しゅうして行く事、もう今日の自分は、明日は、又新たに生まれ変わった私であると、ね。昨日と今日が同じであってはならない。「日に日に生きるが信心」という事は、日に日に自分という者を空しゅうして行くという事である、ね。ですから翌日は又新たな自分が生まれておるのである。と、まあ、いわば、言うほどしの信心なのですから、只、一時おかげを受けたから、それでヤレヤレと言った様なものではないにです。「桜の花の信心より梅の花の信心をせよ」と仰せられるのはおかげに留まらない、ね。いつまでもつきぬおかげの頂けれる信心、それは、やはり梅の花の信心を願わなければなりません。寒いとか、ね、辛いとか、というその寒さの中にもね、あのう、ゆくふくとした香りを漂わせながら、そして梅の花が咲いて、そして鶯が来て止まって、それから梅の実という実が実って、それを、又、梅干しという、いつまでおいても悪くならない、ね、いわゆる紫蘇となじんで、いよいよ梅干しの徳という事になるのです、ね。
これはもう、いつまでも悪くならない、いつまでもつきぬおかげを意味するものだと思うんです。ここで、あのう紫蘇のお知らせを頂きます。紫蘇、紫蘇葉ですね。あれはもう医者が見放した、という様な、例えば病人でも、もういうならば死相が現れておると言った様な場合でも、神様のおかげで、又生き返るほどしのおかげが頂けれる信心、いうならば、まあ、いうならば大変な死ぬか生きるかと言った様な難儀に直面しても、そこを頂きぬかせて頂く、節から折れない。むしろ、その節から又一段と信心が進んで行く、と言う様なおかげを頂かなければならんと、それを私共個人個人の上にも、それを感ずるんですけども、これは私が、十数年も前に頂いた御教えですけれども、現在の地球上に死相が現れておる、と神様がおっしゃった。いわゆる寒天危地だと、ね。寒い天、危うい地上、地球上には、もう死相が現れておる。それを、いうならば歓天喜地、歓びの天、喜びの地ですね、歓天というのは、あの歓び、喜と言うのもこの喜び、そういうね、働きが起こせる内容を持っているのは金光教以外にはないにです。
現在のね、これは地球上に死相が現れておる、もうそれこそ、肌にあわつぶを感じる様に、いわゆる寒天危地である。現在の状態です、ね。それを、いうなら歓びの天、喜びの地、いわゆる歓天喜地にして行く、行けれる内容を持っておるのは金光教以外にはない。まあ、いうならば、これを、いうならわからしてもらい、それに取り組ませてもらえ、それをおかげにして行けれる手立ては合楽理念を持ってする他はない、と言うほどしの事を頂いた事があるんですけどもね。私は思うです。やはり、信心辛抱、梅の花と言われる辛抱させて頂いて、ひとつの教えが血になり肉になったというだけではなくて、それが大きなもの、同じ馬鹿と阿呆になるでも、偉大な馬鹿と阿呆とね、昨日誰かクジで引いとられましたね、偉大なる馬鹿と阿呆というね、それが育って行くというのですから、もう、これは限りがないのです。
成程、教祖様は一生が修行と仰せられるのは、只、一生苦しんでるとか、難儀を感じるというだけではなくて、それが育って大きくなって行くのですから、又、それを願わなければならんのですから、成程、一生が修行だとね。その、いうなら、喜びなら喜びがね、百の喜びから千も万もの喜びに育って行くね、一年一年有り難うなって行くとも、信心は一年一年、位がつくものじゃとおっしゃる。その位がつくという、それを自分で感じれれる。そして、自分の事から、一家の事から自分の周辺の事から、ね、それこそ、「世界総氏子身の上安全」を三代金光様は祈られたという事でございますがね。それがね、内容のある実感のある祈りになって行く事の為には、同じ喜びでもひとところに留まっとる喜びじゃいけんという事がわかる、ね。それにはね、私共の信心が、いつも前向きで行かなければいけないのです。
私は丁度元日の日から、朝、目覚ましのおかげを頂いたら、えらい顔が腫れてました。丁度昨日、十二日まで、一昨日は、もう目が開かない位に腫れておった。丁度、十二日の前の日、十一日の日に田主丸の小野病院の先生が毎日、日参して来ます。そして奥さんが最近、ここ十日あまり顔が腫れると、私と同じ頃から腫れよるわけです。そいで、お医者さんの事ですから、大変それを心配して、内蔵のどこにか具合が悪い所があってじゃろうから、というお届けがあった時、元日から、こう顔が腫れてくる、何も気止めてなかったけれども、そのお医者さんがね、お届けをされて、えらい、そん、心配されますから、あら、そんなに顔が腫れるという事は心配になる事かなと、こう心にかかる様になった、ね。
そしたら、神様から、あのう、ラムネの、あのうビンを頂いた。中がこう引っ込んで、あれはこう、ラムネを飲む時に、ね、あいが、もうダアッ-と出らない、むせない様に、いうなら少し少し出るんでしょう、引っかかる所があるから。いうなら、私が、いうならば自分の顔が腫れておるという事に、そのお医者さんのお届けをさして頂いたとこから、こう引っかかり出したわけですね。そしたら神様からね、私共はやはりね、引っかかる様な事がいつもあっていいね、引っかかる事によって信心が進んで行けばいい、と言う意味の事を頂いた。
勿論ね、百の事には引っかからんけども、千の事になったら引っかかる。千の事には引っかからんけれども、万もの事になってくると心配になる、と言った様なわけですけれども、もう、限りなき神様がこう育てて下さろうとする働きがあるのですから、育って行かなきゃいけんのです、ね。私は、今度福引きで引き当てました御教えが、ね、「頂きますという心」とこう頂いた。私と一緒の方が四、五人位あったでしょうか、ね。けれども、その内容が違う、私はもう頂きます。何でもどういう事があっても、いうなら成行を、いよいよ大切に尊ばせて頂く、頂きますという心あらば当たる事もない。これは食物の事だけではない。一切の事柄でもね、それを、もう、こちらが頂きます、という心で、今、例えば、修行なら修行として頂いたら、それは障る事はないだけではない、その都度に徳を受ける、力を受ける事になる。だから私は、もうこれは自分の信心の血にも肉にもなっておると思うておった。ところがどうですか、そのお医者さんのお届けさして頂いたら、そいがちょっと心配になる、という事じゃないけれども、ちょっと心に引っかかった。けれども神様からお知らせ頂いて、引っかかる事もあっていいのだ、と。その引っかかる事のたんびに、信心を高めて行けばいいのだという事を頂いて、ああ、本当にそうだなとわからせて頂いて、まあ、私が頂きますというのもたいした事はないなあ、これからは、どういう様な事があるかわからん。どういう心に引っかかる様な事があるかわからんけれども、引っかかるたんびに、この心をいよいよ大きくしていかなならん。
昨日もある方が、親先生と一緒の御理解を頂きました、というので、いよいよ、もう本当に一切を、全てをね、まあいうならば、先だって若先生が申しておりましたが、合楽理念の原点というか、原理です、ね、合楽理念という、その理念の原理はね、合楽では一切神愛という、又は、あの世の為にこの世はあるんだと。ほう、成程これが合楽理念の原理だな、と私は改めて、又思うた、ね。だからこの二つが本当に信じられたら問題はないわけですよ。どんな事があっても神愛なのですから、ね。神様の御都合という事を、お道の信心では神様の御都合ですよ、とこういうふうに言うけれども、なら、どういう御都合かというと、おかげを頂かせずにはおかん、お徳を頂かせずにはおかんという御都合なんです、ね。ですから神愛です、一切が神愛です、しかも、もっともっとわからして頂かなければならない事は、この世はあの世の為にあるのだから、いよいよこの世で魂を清めておかなければならない、という事になるのです。そこに一切の、いうならば教えがあるわけです、ね。そこで、ほんなら、私が頂いとる様に、一切をどんな事があっても、どんなのもであっても、ね、例えば、こりゃ食べ物に、例えば致しますならばね、頂きますという心あらばあたる事がないとおっしゃるのだから、これは食べ物だけではない、一切の事柄を神様頂きますとね。普通なら、まあ損になる事であるかもしれん、痛い痒い思いをしなければならない、人から笑われる様な事柄の事かもわからないけれも、それを頂きます、という心とね、だから私には、もうそれが出来けとると思うておったけれども、心にちょっと引っかかる、ったわけですけれども、ハハア、そうじゃない、引っかかるという事も、これはむせんで済む様に頂きすぎてからね、おかげ落とす様な事のない様に神様がお育て下さってるんだ、とわからせて頂いたら、引っかかる事も、又有難いとわかったらおかげを頂いて、おとといまではあんなに腫れとったのが昨日から腫れない。
してみると、十一日間顔が腫れておったのは、ここをわからして下さろうとする働きであった事が皆さんわかるでしょうが、ね。私が引っかかるその事も又、おかげであるとわからして頂いたら、昨日の十三日の、昨日の朝から腫れません、ね。もう本当にね、これは肉体だけの事では、事柄の上にでも、本当の所が、こう感じれたり、わかったり、ハア-そうだったと気付いたら、もうそこからおかげになるものです。いわゆる、そういう心をいよいよ求めに求めて行こうというのですから、ね。このくらいわかったからこれだけでという事は絶対ないです。
おそらく私はこの頂きますという心を、なら生涯いよいよ頂いて、しかもそれは、いよいよ豊かに大きく、この頂きますという心が育って行く事である。又、育って行く事を願わなければならんという事になります。してみると、とても桜の花の信心の、ぱあっと咲いて、ぱあっと散るという様な事ではね、頂けるはずはありません。金光様の御信心を頂いて、もうそれこそ桜の花の咲いた様なおかげを頂いて、あっという間に散って行く人があります。してみると、いわゆる梅の花の信心、桜の花の信心より梅の花の信心をせよ、と仰せられるのですからね。そういう梅の、桜の花的な信心は、もうここにひとつ、さっぱりと切り捨てて行かなきゃいけません、ね。表行より心行をせよとこう仰せられる。その意味がわかった時に合楽ではね、表行をきっぱりやめてしまったんです。表行をしなければいけんもんの様に思うておって、水をかぶったり、断食をしたりね、例えていうならば、ほんなら、仏教より金光教をせよと言われたら、やっぱ仏教やめなきゃ本当の金光教にはならんでしょう、ね。梅の花の、いうなら信心、桜の花の信心より梅の花の信心をせよとおっしゃるのだから、桜の花の信心をぴしゃっと、こう改めて、いよいよ梅の花の信心にならしてもろうて、いうなら信心辛抱梅の花と言われるから、信心の辛抱、いわゆる信心辛抱の徳を身につけて行きながら、ね、例えばほんなら、私でいうならば、頂きますという心を、いよいよ豊かな大きな、いや、偉大なものにして行なければならんという事がわかるでしょう、ね。
そういう願いを持った神様がね、教祖様の御晩年の頃のお言葉の中に沢山出て来るのは、「信心に身が入って来るとね、神様のおためしがありますぞ」というお言葉であったという事であります、ね。いうならば、小学校から中学校に行く時には、やはり、そこの一つの試験があります様に、神様が、私がですよ、もう頂きますというものは、もう自分で完璧に自分のものになってしまっておる様に思うておったのですけれどもね、神様がちょっと、こうつついて下さると、もう心に引っかかる様な事になっておる、ね。だからこれをいよいよ完璧なものに、いよいよ完璧というよりも偉大なものに育って行く事の為にね、神様は、これからも幾度とはなしに、まあ、いうなら試験、おためしをなさって下さるだろう。その都度に、いうならば合格点を取っては、又、上の信心に進んで行かなければならない、ね。限り無いおかげ、それには限り無いお徳を高めて行こうという精進がいるのです。私共がいよいよ、いうならば合楽の信心の原点に立ち帰ってそこからね、その、原理を求め、いうなら理念を、いわゆる樹立して行く、自分の信心の上にね、昨日、皆さんが色々発表されて、もう本当に一人一人が、まあ、本当に素晴らしい御教えを頂くとその御教えに対するひとつの、一年間の信心の覚悟の程とでも申しましょうかね、発表されまして本当に感心致しましたが、最後に、あのう久富繁雄さんが発表しておられました。繁雄さんの引き当てられたのは、今、合楽理念の原理とも言われる、あのう、ね、この世はあの世の為にあるんだというね、それで言っておられましたが、例えばほんなら、ま、ここでは合楽世界という極楽世界の、まあ、極楽世界というのは、まあ最高のおかげと言うですがね、この世はあの世の為にあるら、あの世で極楽に行きたいと思うなら、この世で極楽に行っとかずして、あの世に極楽があるはずはない、という事を言われましたね。
私はそれを聞きながら素晴らしいと思った。この世で自分の心が助かって、自分の喜びが楽しみがね、それこそ信心修行が愉快なまでになって行く事の為に、お互い精進さしてもらう、その喜びの心がそのまま、あの世に持って行けれるのだと。だから本当に、日々極楽の様なおかげを頂いて、と感謝の出けれる日々が必要だという事になる、ね。この世で、いうなら本当に合楽的にいうならば、この世で合楽世界に住んでおかずして、あの世に合楽世界はない。又、あちらで苦労、合楽世界を求め求めして行かなならん。だからこの世で合楽世界に住まわして頂くとかなければ、という意味の事を言われて、ほんの一言でしたけれども、はあも、素晴らしい事だな、日々自分がそこに精進して行っておられる、ね。合楽しおうて行けれる世界、神様からそれこそ、一礼申す、と言われる様に、神様が御礼言って下さるほどしの心の状態、信心の状態というものがね、神様有り難うございます、と御礼を申し上げたら、神様が又、それに対して返礼はして下さる様な心の状態を求めるという事がです、ま、生神を目指して行く精進という事でございましょうが、ね。その過程においてです、ね、私共がこれから、これまでの信心がわかれば、これだけの信心をすれば、というのじゃなくて、もう限りないもの、ね、金光教の信心は、いわゆる限り無いものへの憧念心と言われます。限り無いおかげ、限り無いお徳を頂いて行く事の為に、しかも、それを嬉しゅう楽ししゅうね、それを育てて行こうというのでございます、ね。そして、まあ、申しますならね、例えば本当にまあ、人間のいうなら病気をする、死相が表れておるといった様な難儀に直面してもです、それがかえって、素晴らしい梅干しになって行く事の為の手立てとして行く様なおかげを頂きたい、ね。そして、その有難いというものは、いよいよ育って行く、祈りというものは、いよいよ偉大な祈りになって行くね。合楽の信奉者の皆がです、なら、私が頂いている様に寒天危地を歓天喜地にして行けれるのは、合楽理念を持ってする他はない、というほどしの、まあ事でごますから、いよいよ合楽理念のマスタ-、そして、いわゆる地球上に現れておる死相がね、取れるくらいなひとつおかげ、願いね、世界万国津々浦々にお道の信心を、いや和賀心時代を広げて行こうという、まあ合楽の、ま、信心目標をです、各々の信心の目標とさせて頂ける様なおかげを頂きたい、なら、皆さんにも頂いてもらいたい、ね。真の平和ね、「世界総氏子身上安全、世界真の平和」と三代金光様は仰せられたというがね、その為にいよいよ天地との調和、いわば調和の向こうに天地との交流、その天地との交流が出ける様な信心が出けて、いうならば、寒天危地を歓天喜地にして行けれる様な、私は、あの、おかげになって来ると思うのです。合楽ではどこまでもね、天地との交流、そこから天地と、いうならば拝み合って行けれる信心、天地と交流しおうて行けれる信心、そこから生みなされるところのおかげこそね、おかげである、お徳である。いうならばね、世界万国津々浦々を、とこう願われるその願いの内容がね、そこになってこなければならんと思うのです、ね。はあ、ほんな先生が今日あんな話をされたから、今日からひとつせかい万国津々浦々にね、世界総氏子身上安全を祈ろう、と言うたからと言うて、それを神様が聞いて下さるという事じゃない。その内容がね、いうなら、いよいよ育って行かなければ、これは私が、ほんなら、も、同じ事です、ね。頂きますという心でも。ぴんからきりまであるのですから。いよいよ一切のどういう事でも神愛と悟らしてもらい、もい、それこそ、あの世の為にこの世はあるのだから、その為の修行と思うて頂き、尊んで行くという生き方を身につけて行かなければならんと思うね。どうぞ。